ソノノチの稽古場は、演出家の指示の元に舞台が立ち上がっていく、トップダウンの仕組みをとっていない。もちろん、演出である中谷さんから最終の判断は下されているのではあるが、その判断を下すプロセスも、独断では全くもってない。

そのため、稽古場のほとんどの時間はディスカッションと試行錯誤によって占められている。パフォーマンスの内容だけでなく、現地でのタイムスケジュール、緊急事態宣言が発令されている中で京都市内から遠方へ発表をしにいくことについて、様々な議論が交わされる。そこでは膨大のアイディアが出てきては消え、次の瞬間には変わってゆき、紆余曲折を経て最終決定が下されていくのである。
その仕組みについては以前から様々な場において実践されてきたものではあるが、今回においては制作されているものが『風景演劇』であるということが非常に重要となっているのではないかと考える。

このパフォーマンスに台本は存在しない。また、音楽が先行しているわけでもない。そして、ダンスのような身体が必ずしも中心にあるわけでもない。パフォーマンスの中心となるのはあくまでその場の環境であり、通常は背景となる風景なのである。そこにパフォーマーが介入することにより、ただそこにあっただけの風景が、特別な意味を持って立ち上がってきたり、いつもと違う見え方をしたりする。見る人が風景の存在に意識的になることは、このパフォーマンスの核となっている要素の一つである。
パフォーマンスの構造が人間中心でなく、人間はあくまで風景の中にいる存在だからこそ、稽古場でも誰も支配をしない構造が作られていったのではないかと私は考える。ある意味、クリエイションの最中も、稽古場という環境が中心であり、そこにいる人は等しい存在となっていくのである。そこにいる人に役割はあるが、ヒエラルキーは存在しない。

私自身はクリエイションの途中から稽古場に参加した身であるのだが、聞いている限りだとその仕組みはある程度は意識的なものでありながらも、自然と出来上がって行ったようである。しかしこの仕組みも“絶対”ではないのだろう、今後の作品が変われば、また創作の場も作品に合わせて変容していくと想像できる。風景のように変化してゆく、“絶対”ではないそのゆるやかさがソノノチの在り方なのだろうと感じている。

アーカイブ担当:neco(劇団三毛猫座)