『風景によせて2021 かわのうち あわい』の上演に向けて、愛媛県西条市に在住の劇作家・演出家の鈴江俊郎さんから、応援メッセージをいただきました!

京都から移住し愛媛で活動されている鈴江さんから、京都から愛媛に滞在制作をしているソノノチ。

鈴江さんの作品を拝見したことはあり、こちらが一方的に存じ上げている方ではあるのですが、そのような私たちに対しても、暖かく「応援したい」という言葉を添えたメッセージをいただきました。

二つの土地での偶然の繋がりから生まれた応援メッセージをぜひご一読ください。

【鈴江俊朗さん 応援メッセージ】
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応援するメッセージがうまく書けるか、自信がない。

京都のこのグループを私は一度も見たことがないし、おそらく会ったこともない。縁があると言えば、私が仲間と20年以上も前に作った「京都舞台芸術協会」を、今も支えてくれていることくらいだ。

演劇表現は、世間のなかではまったくよぶんなものだ。演劇などなくても人は飢え死にしない。パン、コメ、味噌醤油の方が重要だ。だけど、演劇表現がない町や村は、味気ないものだ。人はなんのために生きるのか?生き延びるために生きるだけなの?どうせ死ぬのに?子や孫が生きてくれるとしても、どうせその子も孫も死ぬのだ。原子力発電は便利に40-50年ほどは電力を作ってくれるけれど、残された致死量をはるかに超える放射性廃棄物は、半減期が10万年を超える。そんなに長期、外に漏れないように密閉を続けないといけない。コンクリートの材料の石灰石はとれるの?巨大な補修工事を50年間隔でやるほどの材料、道具は維持できるの?産業革命から300年ほどしかたってない私たちが、そんな先のことまで約束できるの?100,000年なのだ。そんな笑えるようなあわれなストーリーのすぐそばで生きている現代の私たちは、ますます「人類はそんなに長くない」という現実から目をそらせなくなっている。

どうせ滅ぶ私たち。種はいずれ滅ぶ。それはヒトに限ったことじゃない。もっと言えば、この星だって寿命がある。星、星団、星雲……何億年も先のことを考えれば、絶対に滅ぶ日が来る。

じゃ、生きてるなんてことにどれほどの値打ちがあるんだろう?

ゲイジュツする、ってことはそこを直視する作業だと私は思う。……応援したい。風景の中で人が動く。絵がある。なにかそれを、芸術だ、と言い切ってしまう人たちがいる。それを見る人たちもいる。なにを感じていいのか戸惑うような時間だってあるだろう。しかし最高に意味のなさそうなことこそ、最高に人しかできない高度に豊かなことなんじゃないか。その不可思議さこそ、人の豊かさの、頂点にあることじゃないのか、と私は思う。

どうせ生きてきたことに大した意味なんかない。というのと、生きてるってそれだけでとっても貴いことだ。というのとは、違った言葉でひとつのことをさしているのだと思う。そのひとつのことを直視したら、まっすぐきもちはきっと、こんな表現に向かうのだろう。そう私は思っている。

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鈴江俊郎(すずえとしろう) さん(office 白ヒ沼 代表)

<プロフィール>
大阪府生れ。大学在学中に演劇活動を始める。1993年ー2007年まで劇団八時半の主宰として京都で活動。以来、ほぼ全作品の作演出を手がけ、俳優として舞台にも立つ。関西劇作家の登竜門だったテアトロ・イン・キャビン戯曲賞やOMS戯曲賞だけでなく、シアターコクーン戯曲賞、岸田國士戯曲賞、文化庁芸術祭賞大賞(演劇部門)など戯曲賞を受賞。
戯曲は英独露インドネシア語に翻訳され海外でも紹介されている。