「〈LST〉と時間①」はこちらからご覧ください→http://landscape.sononochi.com/archives/976
●はじめに
このコラムはタイトルの訂正が必要かもしれません。
というのも、前回からなにげなく使ってきた「時間」という概念は、今回論じるベルクソンの議論の中心にあり、しかもそこで乗り越えられんとする対象そのものだったのです……初手から気詰まりですが、多少高まった解像度を手に、今回も〈LST〉について考えてみたいと思います。
まず、前回のおさらいをします。ソノノチのクリエイションにおいて「時間」がどのような意味を持つのかを考えるため、「時間」が問題になる場面を3つ取り出しました。
3.「自分らしい時間の流れの回復」:〈LST〉の鑑賞における空間的同一化と時間的異化を通じて自身の唯一性を実感するプロセス
今回行いたいのは、これらの相互にバラバラに出された論点を、ベルクソンの議論を使ってつなげていくことです。
●「純粋持続」に向けて:ベルクソンの議論
今回はこの『時間と自由』を中心に、ベルクソンの議論を追っていきます。大きな誤解がないことを願いつつ、できるだけ用語を絞ってベルクソンの時間論を説明すると、こう言えるかと思います。
「時間と意識はともに『持続』である。そして『持続』に触れるには、『直観』を用いなければならない。」
ベルクソン曰く、我々は時間の性質を誤解しています。
想像してください。壁にかかったアナログ時計の秒針をじっと眺めている。チッ、チッ……と音が鳴るたびに1秒が過ぎる。まるで、現実自体がこのような個別の「今」という単位に分けられているように感じないでしょうか?*3 これをベルクソンは空間的、線形的、あるいは機械的な時間の捉え方と呼びます。確かに、私達は空間の中で1cmを測るように、時間の中から1秒が取り出せるかのように感じます。
これでは実際の「時間」の本質を捉えそこねている、とベルクソンは言います。「時間」には始まりも終わりもなく、切れ目のない全体として存在しているからです。過去と現在は相互に浸透し、現在と未来も同様につながっています。
「時計の時間」は切り分けられないはずの時間を便宜的に分けることのできる、便利な道具です。時計がない世界は想像することも難しいですし、そのおかげで秩序ある生活を送れている。しかし、この道具を使ううちに、私たちは時間の「切れ目なさ」を忘れてしまう傾向にあります。
そこで、ベルクソンが用意したのが「持続」という概念です。「持続」とはその名の通り、切れ目なく、常に動いていて、変化し続けます。ベルクソンはまさにそのようなものとして(普段私たちがなにげなく呼んでいる)時間や意識を捉えている。例えばメロディーを聴くとき、音はそれぞれが独立しているのではなく、「相互に浸透し合い、有機的に一体化する」(ベルクソン1889=2001:128)と感じられる。持続とはそのようなイメージで捉えられます。
メロディーは一音一音を切り離して理解することはできませんが、そのメロディーから一音を取り出すことはできるように思えます。これは私たちが「一音」という区分を設け、その音を一つの塊として記号的に認識してしまうためです。その意味で、メロディーは持続でありながら、空間的な要素が入り込んでいます。このメロディーの例えは持続というものを理解する助けにはなるのですが、空間の要素が含まれいない“持続そのもの”を捉えているわけではないのです。
ベルクソンは“持続そのもの”のことを「純粋持続」と呼びます。「純粋持続」とは「いっさいの言語・概念・記号を振り払って自己内界に深く深く沈潜するとき、そこに直覚的に感得される生動そのものとしての自我・人格の存在形式」(中田2015)などと説明されます。注目したいのは「直覚的に感得される」という部分です。これは「直観」される、と言い換えることができます。「直観」とは、「内側」からある対象を知ることです(中村2021)。反対に、言語を用いて外側から知ることは「分析」と呼ばれます。
「純粋持続」は私たちの意識に直接与えられている本来の時間です。そして、この純粋持続を把握するには「直観」を用いるほかない。
ここで注意が必要なのは、言葉で「純粋持続」を捉えることは本質的にできない、ということです。言葉の使用することは空間的な営みなため、説明すればするほど、まるで「純粋持続」が“もの”であるかのように思えてしまうのです。
「意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて、現実の代わりに記号を置き換えたり、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない」とベルクソン(1889=2001:154)は言います。このような傾向は私たちが言葉を覚え、現実をより細密に分けられるようになるほど進行します。現実は本来の変化し続ける相互浸透的な姿から、変化の止まった空間に姿を変えてしまう。
私たちの世界の実在、触れている時間、主体である意識はすべて本質的には「持続」です。しかし、根底にある「純粋持続」にはなかなかアクセスができない。これはこれらのものを捉えるときに、空間性が入り込んでしまい、「分析」的に見てしまうためです。私たちは「純粋持続」を捉えるために「直観」を用いないといけない。これが取り急ぎ、今回の話に関わる範囲でのベルクソンの議論の要約です。
〈LST〉を鑑賞したり、その特徴を説明された経験を持つ人なら、上記の説明を読んだだけでベルクソンの議論と〈LST〉が目指しているものの間にある程度の共通性を感じると思います。
〈LST〉とは「純粋持続」を「直観」的に捉える営みではないか。これを探るために、前回考えた3つの場面を取り出して検討してみましょう。これらの場面はベルクソンの考える「持続」の議論にどのようにつながってくるでしょうか?
まず、「時間の複層性」と「自分らしい時間の流れの回復」について考えます。前者は風景のもつ性質、そして後者は〈LST〉のひとつの目的だ、とその時は書きました。
ベルクソンの議論において、時間は「純粋持続」です。これは定義上、要素に分けられない、相互浸透的な一体です。その意味で、時間の「層」という言い方は、ベルクソンの議論の上では不正確です。しかし、ベルクソンは我々の意識が絶えず記号を固着させるため、時間を空間として捉えてしまう傾向がある、とも言っています。ならば、私たちの時間の空間的認識は「層」になっていてもおかしくありません。
時間の複層性ではなく、時間の認識の複層性。このように理解するとベルクソンの視座のもとで〈LST〉が理解できるのではないかと今は思います。すなわち「時間の(認識の)複層性」とは、風景の持つ性質ではなく、風景を認識する際の我々の意識の段階だと言えるのではないでしょうか?
例えば、ある人が〈LST〉を観にいきます。生活での様々なストレスや心配事を抱えながら、指定された位置に腰を下ろし、風景を眺めているその人は、おそらくまずは「分析」的に風景を見ています。あそこに木がある、山がある、車が通った。空間を記号を使って分けながら、風景を分析していく。このような認識の中で、この人は「複層性」への気づきを得ます。これがまさに中谷さんが経験した、風景が「数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽が共存し、それぞれがそれぞれの時間を刻む空間だ」と気づくような経験です【210930】。
もちろん、このような気づきを得ることは〈LST〉の経験に中心的なものですが、この段階の先で「自分らしい時間の流れの回復」を得るためには、「分析」をやめる必要がある。私の理解が正しければ、「自分らしい時間」とは、ベルクソンがいう意識に与えられた「純粋持続」としての時間に触れる時間にほかなりません。
そして、「純粋持続」に接近するには「直観」を用いなければならない。〈LST〉を観ることは、「分析」から「直観」に意識のスイッチを切り替える様々な仕掛けが施されていると思います。例えば、記号的な表現が排されていることです。もちろん、鑑賞者の内面には入り込めないので、鑑賞を始めた時点で風景を分析的に見ることを止めるすべはありません。しかし、セリフを排し、抽象化されたパフォーマーの動きや地域の人々の生活の様子を見せる過程で、段々と分析的な意識が削がれていく。なにより、風景の大部分を構成する自然の要素は純粋持続に準じた存在です。その前で言語的に解釈できないものを一定時間観ることで、鑑賞者は「直観」で意識するように促される。よって、「自分らしい時間の流れを回復する」ことを志向する〈LST〉は、純粋持続への接近の方法だと考えます。
続いて、「ゆっくりさ」について。上で確認したとおり、ゆっくりとしたペースで作品が展開することは、記号的表現からの脱却という一つの意味があります。そこで、ここではいかなる質の「ゆっくりさ」が目指されるのかについて考えてみます。
「たびするつゆのふね」のクリエイションの過程で、パフォーマーの歩く速度をBPMで指定してみてはどうか、という案が持ち上がったことがありました。手前の道では非常にゆっくりとしたテンポであるBPM30(分速30歩)で歩き、もう一つ遠い道ではBPM35で歩く。事前にこのように指定し、パフォーマーはこのテンポをイアモニターで聞きながらパフォーマンスを行います。パフォーマーはそれぞれ客席からの距離が異なりますが、BPMを指定することで動きが同期しているように見せることができます。極端にゆっくりとした動きがシンクロすることで、パフォーマーが人ならざるものに見える。このような「抽象化」を狙っている、と演出・中谷さんはその時点では語っていました【221007】。
しかし、イアモニターでBPMを聞きながらパフォーマンスを行う案は、最終的に廃止されました。その経緯を中谷さんは次のように説明しています。
「機械的」「時間に操られてせかせかいる」といった表現は、「時計の時間」を思い出させます。実際、この案を試した稽古のあとの話し合いである俳優は「BPMに集中してると全体感が把握できなくなる」と話していました【221007】。確かに、BPMに合わせて歩くことは、演じている側からすると常に時間の空間的側面を意識し、一拍一拍に従わされるような経験でしょう。
結局、上演でパフォーマーは情感を感じさせる独特のキューを聞きながら演技を行いました。*5 興味深いのは、その時点で演出上の合理性があったとしても、また観客には耳元で拍を聞いて行為しているかどうかは直接わからないとしても、この案が不採用になったことです。ここに〈LST〉をつくる上での思想が宿っていると感じます。これまでの認識が正しければ、〈LST〉は鑑賞者が純粋持続に接近するための方法です。しかし、それだけではないのかもしれないと、この事例を見て思います。鑑賞者だけでなく、演者の純粋持続への接近も目指されているように思えるのです。パフォーマーが演技をする上での内面は外からは見えないため、一見パフォーマンスに影響はないように思います。しかし〈LST〉においては再現性のあるゆっくりさを作り出すにとどまらず、「ゆっくり」という主観的状態が志向されます。〈LST〉という体験を提供する側と享受する側がともに純粋持続に接近していること。これが〈LST〉において目指されている「ゆっくりさ」の質なのです。
ここまでの話をまとめると、次のようになります。〈LST〉とは純粋持続に接近するための方法である。その際、観客だけでなく、パフォーマーも純粋持続に接近することが目指される。行為するにしても、それを観るにしても、分析的にではなく、直観的にそれを捉えることで、純粋持続の状態に身を置くことができる。〈LST〉で開発されてきた様々な方法は、直観的に世界を捉えるためのものである。
「自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続の中に身を置き直すことなのである」、とベルクソン(1889=2001:276)は言います。彼の時間論は人間の自由を説明することが最終的な目標でした。そして彼の結論は、人が本来の純粋持続に身を置くことで自由になれる、というものでした。
〈LST〉も同じく自由に行動するためのツールであろうと思います。正確に言えば、自由は分析的な方法で世界に触れることで制限されてしまう(例えば、BPMで身体を統御することで)。〈LST〉という方法は、より直観的に世界に触れられるための方法を試行錯誤、取捨選択しながら作り上げる営みなのだと思います。
次回はどのように〈LST〉の中で「記号」が扱われているか、考えはじめようと思います。出発点は近頃ソノノチの稽古場でしばしば話題になるソシュールの記号学で用いられた「シニフィアン/シニフィエ」概念になりそうです。ソノノチがどのように分析的な理解から直観的なクリエイションに向かって行くのか、考えていきます。
*注釈
1.「アンリ・ベルクソン」(Wikipedia 日本語版)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3
2.原題は『意識に直接与えられたものについての試論』と訳されるもので、この題の邦訳も存在する。
3.この時計の秒針のイメージはThomson(2021)の記事から借用している。
4.この全文はここから購入して読むことができる。 https://sononochinochi.stores.jp/items/6360d1094aed1916ab5662c0
5.キューが用いられた経緯などに関してはこちらに詳しい。柴田惇朗,2023,「「段取り」じゃない、「LINE通話」の使い方――テクノロジーは舞台芸術にどのように移入されるか?」https://fashiontechnews.zozo.com/series/series_fashion_technology/junro_shibata
[参考文献]
筆者:柴田惇朗(しばた・じゅんろう)