〈ランドスケープ・シアター(以降 LST)〉にとって「時間」が一つ重要な要素なのではないか、という直感はこのコラムを書きはじめた時点でありました。時間それ自体を論じるのは難しいですが、「〈LST〉にとっての時間」にはある程度一貫した理解があり得るのではないかと思ったのです。これは〈LST〉をつくるにあたって時間が重要であるとソノノチのメンバーから聞いていたからでもありますし、その過程で時間を惜しみなく注ぐクリエイション・メンバーを見て個人的に思ったことでもあります。

 

ということで、今回から2回にかけて、〈LST〉の裏にある時間観について考えていきます。はじめに、そもそも〈LST〉において時間が問題になるのはどのような局面かを記述します。具体的にはゆっくりさ、風景の中の時間の複層性、自分らしい時間の流れという三点に着目して考えます。次に、これらのテーマがどのような時間観に基づくものかを考えます。ヒントとなりそうなのは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの時間論です。今回は段階1まで、次回以降で段階2を展開します。

●〈LST〉において時間が問題になるとき
▷ゆっくりさ
〈LST〉の最大の特徴の一つに、ゆっくりとしたスピード感があります。例えばパフォーマーの動き。近年の作品で中心的な役割を担うのが、パフォーマーが数十から数百メートルの距離をゆっくり歩くシーンです。作中ではそれ以外の動作も抑制的で、動き出しから動きの終わりまでに多くの時間をかけます。

あるミーティングで構成/演出の中谷和代さんは2022の作品『風景によせて2022 たびするつゆのふね』の中のあるシーンを次のように説明していました。

「ここに人が出てきています。これくらい静謐な、この人も歩いてるって感じではもはやない、ちょっと霊的なゆっくりしたスピードで歩きます。[歩くというより]移動していくって感じかな。」【221010】

この語りはゆっくりとしたスピード感によってどのような効果が期待されているかを示唆します。「歩いてるって感じではもはやない」「霊的なゆっくりしたスピード」という語りは、上演中「人」に見えることから離れるために、ゆっくりとした動作が採用されていることを示します。実際、〈LST〉は舞台を日常の営みと地続きの空間で上演されることが多く、演者と通行人の差異を明確にするため、このような操作が必要なものと思われます。

また、構成もゆっくりです。作中、各シーンは日常のリズムと比べてスローペースで、相互に混ざりあったり、複数の出来事が別の場所で同時に起こります。上演のはじめとおわりもはっきりと設定されない場合が多く、鑑賞体験はいつの間にかはじまり、いつのまにか終わります。目を凝らさないと見逃してしまうような、しかし見逃してもそれはそれでいいのではないかと思えるような、そんなペースで作品の中の時間は流れていきます。

最後に、作品制作のプロセス自体にもゆっくりさが織り込まれています。以下、11月の本番に向けての滞在が6月頃から始まることに関しての、制作・渡邉裕史さんと中谷さんのミーティングでの会話です。

渡邉さん「[滞在制作に]10月より前から来てるほうがいいのか、10月からでいいのかでいうと?」
中谷さん「[滞在制作が]はじめての人は来といたほうがいいと思うよ。10月以降は[制作のスケジュールが詰まってくるので]エンジョイの時間がない。ゆったりした時間を過ごすの、原泉では大事じゃないですか。」【221126】

「ゆったりした時間」とは原泉の自然に触れたり、地域の方や他の滞在アーティストとコミュニケーションを取ったりする、いわゆる作品制作とは一見無関係な時間のことです。ソノノチではこのような時間が意識的に創作プロセスに組みこまれています。このような経験は直接的に作品に取り込まれることもあります。例えば『たびするつゆのふね』の制作プロセスでも、現地の方との会話がパフォーマンスの動きのヒントとなる、といったことがありました。

やや横道に逸れますが、創作プロセスにおける「ゆったりした時間」はそれ自体として重要だと感じています。これは、「旅するパフォーミング・アート グループ」としてソノノチが活動する理由の一つが「ゆったりした時間」の確保にあるのではないかと考えるためです。日常的な役割から物理的に離れることで、クリエイション・メンバーは(当たり前ながら)非日常的な経験をします。そして、例えば普段話さない人と話し、食べないものを食べ、見ないものを見ることで、日常を相対化する距離が生まれます。作品創作のプロセスにおいてこのような時間を作ることは、持続可能な作品生産に寄与しているのではないでしょうか。

▷風景の中の時間の複層性
次に、〈LST〉における「複層性」について考えてみたいと思います。これは『風景によせて2021 はらいずみ もやい』を作っていた頃、よく取り沙汰されていたキーワードです。複層性とは読んで字のごとく、複数の層をなす性質のことです。メモを見返すと、ソノノチにおいて複層性という語はいくつかの意味で使われてきたことがわかります。

例えば、次のような場面。

①上演が行われる「原泉」の地理的特徴として
「原泉は複層的、マトリョーシカ的。1つのものにいろんなフレームが重なっている感じ。額縁の中に額縁があって、合わせ鏡、みたいな感じ」【210827】

②「風景」の共通的特徴として
時間の流れのちがうものが共存している(複層性)
→一定のリズムではない。川の流れのように、遅いときと早いときがある。
風景のあらゆる場所に息づいているリズムがあるじゃん!って気づいて、自分もその中の一存在として自分の時間を回復できる。【210726】

③〈LST〉の様式的特徴として
中谷さん「人がわらわらいて、広場的なもの、見る人が自分の時間の流れとコミュニケーションするための作品。それを別のお客さんが見ることもできるという複層的な作品なんだと思っています」【210818】

それぞれに上演会場や作品が複層性と関連付けて語られています。これらの用法は互いに関係していますが、着目しているレイヤーが違います。①では原泉という土地の特徴の一つとして、②では「風景」の共通的特徴として、③では上演様式〈LST〉の特徴として、それぞれ複層性が用いられています。

この中で、特に時間に言及があるのは②と③ですので、順に見ていきます。まずは②について*1。②で言及されているのは風景の共通的特徴としての時間の複層性です。

ある日、公園のベンチに座った。コロナ禍、私は目まぐるしく変化する情報の中で混乱と無気力を感じていた。そんな中で風景を見た時、束の間自分らしい時間が回復するような気がした。風景とは、数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽が共存し、それぞれがそれぞれの時間を刻む空間だ。【210930】

この中谷さんの経験に基づく引用は、〈LST〉における複層性の意味を説明しています。風景は複数のものから構成されていますが、それぞれ独自のリズムをもってその場に存在しています。すなわち「数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽」を風景は共に含みこみます。まさに「時間の流れのちがうものが共存している」状況です。〈LST〉はこのような風景の性質を前提として作られています。

▷自分らしい時間の流れ
先程の引用は以下のように続きます。

私は相対的に、風景を構成する様々なものの一つになったのだ。ぼーっとただそこにいることで、私も固有の時間をもつ生き物だと気づいた。この風景は私が存在することのできる場所なのだと。【210930】

ここの引用によって、複層性がなぜ風景の性質でありながら同時に〈LST〉の様式的特徴とも言えるのかがわかります。風景の中の様々なものの独自性への気づきは、自己の独自性への気づきにつながります。自分もまた、虫や太陽のように、独自のリズムを持つ存在である、となる。さらに、自分を含めた様々なものが「風景」という一つの空間を構成すると捉えられていることも重要です。自分は、風景の中の独立した部分であると同時に、風景と一つでもある、ということです。

〈LST〉を鑑賞しながらこのような気づきは連鎖的に連なっていきます。一言でまとめるなら、〈LST〉とは風景の複層性を見えやすくする装置である、と言えそうです。

この装置は空間的な同一化と時間的な異化の両側面を含み込んでいます。空間的な側面に目を向けると、鑑賞者の体験とは日常的な空間から一時的に離脱し、非日常的な風景の中に入っていくというものです。劇場空間のように区切られていない風景の中で、鑑賞者は劇場で演劇を見るとき以上に空間に同一化していきます。

一方、その空間を構成する様々なものはそれぞれ独自の時間を持っている。空間に身を置き、構成要素を丁寧に見れば見るほど、鑑賞者自身のリズムがそのどれとも同期しないことが明確になっていきます。これは時間的な異化の経験と言えます。

そしてこの異化を経て、「自分らしい時間の流れ」が立ち上がります。

鑑賞者は⾵景演劇を通してその⾵景がその瞬間その場所にしかないという事実(⾵景の唯⼀性)にふれ、⾵景が⽴ち上がる瞬間に⽴ち会い、それを構成するあらゆるものと居合わせることになる。この経験は鑑賞者⾃⾝の唯⼀性への気づきと「⾃分らしい時間の流れ」の回復につながることが期待されている。【「はらいずみもやい」報告書】*2

ソノノチは〈LST〉が「自分らしい時間の流れ」を「回復」させると説明しています。これは自分らしい時間の流れの喪失(「目まぐるしく変化する情報の中で混乱と無気力を感じていた」状態)を前提した上で、上記の空間的同一化/時間的異化のプロセスである、と言うことができます。

また、③の引用には「それを別のお客さんが見ることもできる」とあるように、これらの連鎖的な気づきは自分一人で完結するのではなく、他の鑑賞者の経験と重ね合わせられます。他の人も自分と同じように自分らしい時間の流れを回復している、というさらなる気づきが、劇場の外での〈LST〉の鑑賞をすぐれて演劇的(集合的)な経験とするのです。

●これらの特徴はどのような時間観に基づくと言えるか?
さて、ここまではソノノチにおいて時間がどのようなときに問題になるのかをみてきました(段階1)。ゆっくりさ、風景の中の時間の複層性、自分らしい時間の流れ、という3つの点は、〈LST〉ならびにソノノチを特徴づけるものです。しかし、それぞれのパートで論じたことはぶつ切りの断片となっています。いまのところ、ゆっくりさと他の二つのポイントのつながりははっきりとは明示されていません。時間の複層性→自分らしい時間の流れの回復という〈LST〉の鑑賞体験がどのような時間観とつながるのかも曖昧なままです。

次回は、ここまでのいろいろな話に、アンリ・ベルクソンの時間論を使って補助線を引こうと考えています。100年以上前、ベルクソンは「時間」が実は空間的に捉えられてきたのではないかと論じ、独自の時間理解を編み上げました。もちろん、専門家でない私にとってベルクソンを論じることは手にあまるのですが、〈LST〉における時間を理解する一つの補助線としてベルクソンの時間論は使えるのでは?という浅薄な直感が思いもよらない何かにつながればいいな、とこれまた無責任に突っ走ろうと思います。

気長に、時間の許す限り、お付き合いください。

*注釈
1:「複層性」それ自体については追って詳しく書く予定です。
2:引用の中で「風景演劇」という語が用いられていますが、一旦〈LST〉と同義であるとします。詳しい両者の違いについても当コラムで追って考えたいと思います。


筆者:柴田惇朗(しばた・じゅんろう)