国立大学法人 静岡大学 人文社会科学部客員教授の平野雅彦さんに、『風景によせて2022 たびするつゆのふね』の評論を寄稿いただきました。
下記、寄稿文です。
時間をかけて風景と身体をなじませる
国立大学法人 静岡大学 人文社会科学部客員教授 平野雅彦
「風景演劇(ランドスケープシアター)」、とは何か。2019年から原泉ではじまった「演劇のようなもの」を、ソノノチはそう呼ぶ。
演者は、果たして主体なのか客体なのか。前景なのか、それとも後景(背景)なのか。ソノノチのパフォーマンスを観ながら、毎回この問いが頭をかすめる。「演技」がはじまると、あるときには、その横を軽トラックが走り去って行き、虫取り網を持った親子がこちらに向かって歩いてくる。焼き畑の煙が上がる。鳥や虫が集(すだ)く。草花は風に吹かれて烈しく揺れる。あなうらから土のぬくもりが伝わってくる。目を遠く放てば山々は書割ではないかと錯覚さえ起こす。すべては幸(さきわ)う原泉の日常である。
それら地勢風土の一部となって演者が動き出すと、楽曲もまた喨喨と景色を包み込む。観客は、主体(演者)と客体(自然)、主体(自然)と客体(演者)という両方をスイッチしながら眺めることとなる。主体と客体は、観客の視点によって、前景となったり後景となったりする。場合によっては、何も起きていないことが起きているようにもおもえたりする。さらに言えば、従来の演劇にある、「ここを観ろ」「このセリフを聴け」という演出はほぼない。すべては観客が、演者と風景とを同時に切り取って、思い思いにシーンを構成する。このことはその日その時そこにいる誰ひとりとして同じものを観ていないことを意味する。風景演劇の肝はまさにここにある。
現場で起きていることは、観るという行為ではなく、眺めると言った方がむしろぴったりくる。眺めるというと受動行為の意味にも取れる。だがそう決め付けるのは性急だ。「眺」はその象形からもわかるように、(注意深く構えて)兆しを見逃さないことである。演者はその時空からナニモノかを呼び寄せ、観客はナニゴトかの前触れをキャッチする。古の日本ではこれを「占う」といった。ちなみに古来中国では、兆をめでたい出来事の前ぶれともみた。それが日本に渡ると例えば桃太郎の話となる。この話では木偏に兆と書く桃が川を流れてくる。桃はたくさんの実をつける多産を表す意匠であって、子どものいない爺婆のところにその後の物語を予兆する桃が流れ着くというのは合点がいくだろう。われわれは風景演劇から吉兆を受け取っているのかもしれない。
風景と身体とをなじませていくには、それなりの時間を要する。その日その時、現場に出向き、即興(インプロヴィゼーション)で演技をおこなうことはひとつのメソッドである。一方で、何ヶ月も前から、場合によっては何年もかけて、そこで「生活」をして地域の空気にじっくりとなじんでいくことでつくりあげていく身体の在り方がある。風景演劇は後者になる。生活とは、(風景を)活かして生きることであり、(風景に)活かされて生きることだ。じっくりと時間の中にたゆたってつくり上げていく身体こそが、風景演劇そのものなのである。
原泉アートデイズでは、アーティスト・イン・レジデンスという手法を採って芸術祭全体をつくりあげていく。アーティストが中長期的に原泉と関わることが参加の条件のひとつとなっている。それはまさに時間をかけて、地域の水や空気、動植物、食材、住民たちとなじんでいくことを意味する。そこでは、オレがオレが、と主語をつねに自分で語るアーティストはなじまない。むしろ、身体ごと原泉に投げ込んでしまうこと、すなわち主語を捨てることで、ここならではの取り組みとなるのだ。しかしそこではアーティスト自身の考え方を大きく変えてしまう予測不可能な出来事が待っているかもれない。その証拠に風景演劇は、この原泉で生活することから生まれたではないか。求められるのは、自らの価値観を解体する勇気とそれを楽しんでしまえる思考の転換である。
ソノノチ代表の中谷和代(構成・演出)は言う。「すべてが乗るおぼんをつくりたい」。そう考えると、原泉アートデイズに参加しているアーティストたちや観客はひとり残らず風景演劇に参加しているキャストだともいえる。
平野雅彦プロフィール
文化芸術に軸足を置きつつ、ジャンルを超えたあらゆる知を編集する「情報意匠論」を提唱。
静岡大学人文社会科学部客員教授、静岡県広報業務アドバイザー、静岡市文化振興審議会会長、静岡音楽館AOI市民会議委員、三島市文化振興審議会会長等、要職多数。
共著『図書館はまちの真ん中』(勁草書房)他執筆多数。
日程:2022年11月19日-20日
場所:「旧掛川市JA原泉支所」付近一帯(静岡県掛川市孕石)