演劇批評家の森山直人さんに、『風景によせて2021 はらいずみ もやい』の劇評を寄稿いただきました。
下記、寄稿文です。
「風景」と「観客」について
――ソノノチ『風景によせて2021 はらいずみ もやい』評
photo:Wakita Tomo
「風景演劇」シリーズを制作しつづけているパフォーミング・アート グループ「ソノノチ」の新作を、静岡県掛川市原泉(はらいずみ)地区で見た。初めて訪れる場所である。新幹線に乗り、掛川駅で降り、初めて乗るバスを駅前で待っているあたりから、すでに私は、半分「観客」であった。
同じような感覚を抱いたことは、いまは解散してしまった劇団維新派の公演で体験したことがある。たとえば、岡山県犬島で上演された作品を見に、電車を乗り継ぎ、フェリーに揺られる頃には――つまり、劇場の客席に座るはるか以前から、私はもう「観客」であったのだ。島に上陸すると、そこには恒例の屋台村と、丸太で組んだ巨大な劇場があった。あたかも、「劇場」そのものが船となって、船のように、その場所に運ばれてきたかのようであった。
それに比べると、ソノノチの「風景演劇」は、少し違う体験だった。
たしかにバスに揺られる頃、私はフェリーで犬島に運ばれていた時と同じように「観客」に変貌しつつあった。だが、いざ、現地についてみると、大きく違う。
そこには、「劇場」はない。ただ、ごく普通の「風景」だけが、圧倒的にそこにあるのだ。
原泉地区は、掛川駅からバスで約30分の山間部にある。山間の、やや開けた集落の農地跡で、1時間に満たないこの上演は行われた。簡素な椅子などが置かれているだけで、目の前には山々が、傍らには河原が、そして何よりも、その土地に住んでいる人たちの暮らしが、おだやかに私たちを取り囲んでいる。やがて、遠くの道路の向こうから、あるいは近くの古民家の方角から、3人のパフォーマーが、ゆっくりした足取りで、「舞台」へとやってくる。3人は、ほとんど交わることなく、おのおのに固有の時間を、そのような風景とともにすごし、たたずんでいる。白と赤の、やや神職を思わせないでもない衣装がなければ、3人の振る舞いは、ほとんど風景に溶け込んで「見えなくなって」しまうだろう。
演出の中谷和代は、あたかも白いキャンバスに風景画を描くように、風景のなかに俳優たちを存在させる。俳優たちのゆるやかな、意味性の希薄な動きや軌跡は、ちょうどキャンバスに風景画を描くときの自由な絵筆の、その筆先の動きをも連想させる。実際、「舞台」――といっても、そこは何もない農地のような場所――の片隅には、現実の風景を描いた風景画がイーゼルに飾られている。いつ始まってもよく、どこで終わってもよい時間が、風のように、その場に漂って消えていく。客席の多くは、地元に住む人々で占められていたように見えた。
この「出会い」を、私たちは何と名付ければよいのだろうか。
そのことを考える上で、この作品が、「HARAIZUMI ART DAYS!2021――相互作用」(10月14日-11月28日)の参加作品であることは重要である。グラフィックデザイナーの羽鳥祐子が中心となって立ち上げたこのイベントは、いわゆる国際アートフェスティバルとは一線を画し、何よりもアーティストがこの場にレジデンスして創作のプロセスを構築することを第一の目的に掲げているところに特徴がある。たとえば、越後妻有や瀬戸内のように、国内外の観客が多数訪れることで、地元の風景が祝祭的に変貌するようなフェスティバルではそもそもないのだ。だからこそ、風景は、そこに暮らしている住民の暮らしをそのままたたえつつ、当たり前のように、そこにある。その当たり前さこそが、圧倒的な何かでもある。
だからこそ、本作との出会いは、私にとって、きわめて珍しい体験であった。掛川駅からバスに乗ったとき、たしかに私は、維新派の野外劇場を訪れたときと同じように、「(劇場の)観客」へと変容しかけていた。だが、いざ現地に到着し、周囲を散策し、作品を体験しおえた頃には、「私は観客である」という意識は、すでにほぼ消滅していたのである。
だとすれば、ここにいる私は、いったい何者なのか。――おそらく私は観客ではなく、私自身が風景の一部と化していたのではなかったのか。風景に、はたして観客は存在しうるのか。さらにいえば、「風景演劇」に、はたして「演劇」は存在しうるのか。
たぶん、その是非はひとまずおき、そこに演劇など「ほとんど存在していなかった」のだ、と考えるべきなのだと、私は思う。ただ、風が通り過ぎた。その風を、私たちはほとんど演劇と呼ぶ必要はない。それでも一瞬、「演劇のようなもの」が通り過ぎたようにも思える。いまの私にとって、確実にいえることは、2020年に京都芸術センターという屋内劇場で見たソノノチの「風景演劇」シリーズの第一作(『たちまちの流(ながれ)』)とは、まったく違う質の体験があった、ということである。風景のなかで、もはや、ほとんど「気配」のようなものへと接近しつつある何かを「演劇」と呼べるのかどうか。そこにあったのは、ほぼそんな「問い」であったように思われる。
森山直人(演劇批評家)
日程:2021年11月20日-21日
場所:泉公会堂付近(静岡県掛川市黒俣62周辺)